【いくら漬け新緑函館紀行③「青函連絡船摩周丸」】
2014年 05月 29日
雨風と寒さに負けて、摩周丸に緊急避難しました。
入場料は500円だったかな?
正式の名前は「函館市青函連絡船記念館 摩周丸」だそうです。
公式サイトです: 函館市青函連絡船記念館 摩周丸
以前お台場の船の科学館の隣に停泊してあった「羊蹄丸」は何度か見学したことがあります。船の科学館が閉館になった際に結局どうなったのでしたっけ?廃船になったのでしょうか?
寂しいので、代わりに函館で摩周丸を見学!
私自身は、飛行機でしか北海道に来たことがないので、連絡船に乗る機会はありませんでした。
お若い方は青函連絡船なんてご存じないかもしれませんが、青函トンネルが出来るまで、青森と函館の間の津軽海峡を行き来していた、貨客船です。1908年から1988年まで80年間運行していました。最後の連絡船は昭和63年3月だったので、昭和の時代が長いですね。
戦争に巻き込まれたり、台風で沢山の犠牲者を出した洞爺丸の遭難が思い出されます。
ウィキペディアです: 洞爺丸事故
海辺ですので、それでなくても風が強いのでしょうが、びゅんびゅん吹きすさんで、傘はすぐおちょこになるから役立たず。這う這うの体で船内に入りました。
中に入るとすぐに聞こえてくるのが、ありし日の船内放送でした。
乗ったことのある方は懐かしいことでしょうね。
いるかちゃんがキャラだったようです。
函館山をバックに写したポスターもありました。
中を少し見て、寒い甲板に出ました。
この日は寒くて凍えそうでしたが、今日は30度超えの暑さで大変だった北海道のようですね。
道東で33度なんてなったら、どうやってしのぐのだろうか?と心配してしまいます。
ガスっていて、函館山のはの字も見えませんでした。
この時はどこにあるのか知らずわからなかったけれど、今見るとよくわかります。
国際ホテル側を撮りました。
泊まったのは、道路沿いの建てものではなくて、画像右端のグレーのビルです。
渡り廊下でつながっていました。とても綺麗で広い部屋だったので嬉しかったです。
甲板を歩くのも寒くて寒くて、、、
それでもせっかくの機会なので、がむばって写しました。
煙突のJNRの文字が懐かしい。
昔のポスターも大切に保存しているのでしょうね。
エンジンはもうないそうですが、操舵室が残っていました。
こちらは、ツーツーツーの通信室。
モールス信号のツーツー体験もできます。
備品や模型の展示が沢山ありました。
模型の煙突にJNRマークのものと「工」マークのものがあるので、係りの方に尋ねると、「工」印の「工」は工務省?の頭文字なのだそうです。
又、連絡船の80年の歴史や洞爺丸台風の被害の詳しい展示や当時の新聞も残してありました。
洞爺丸台風で犠牲になったのは、洞爺丸だけでなくほかの連絡船も座礁したり転覆したそうで、本当に大変な被害だったのがよくわかりました。
大勢の命が犠牲になり、青函トンネルを作る要因となったのでした。
風速50mの台風で、大雪山 山系の樹木が何万ヘクタールにも渡ってなぎ倒されたそうです。
そんな大きな台風が北海道を襲うことはあまりなかったでしょうし、対応も台風になれた沖縄や九州のようにはいかなかったのでしょうね。
翌日沢山の遺体が流れ着いた七重浜の慰霊碑の前をバスで通り、遠い日の悲しい災害に思いを馳せました。
青函連絡船は船内に貨車をのせていて、強風で揺れた時に重い貨車が動き、転覆の原因になったのだろうと言われています。
どうして貨車をのせているのかな?と、ふと思ったのですが、人間は足があるから歩いて汽車から船へと移動できますが、貨物は貨車をそのまま船にのせると、動かさずに済み効率的ということのようです。昔は画期的なアイデアだったのでしょうね。
洞爺丸台風の悲惨な災害や、第2次大戦の折の米軍の攻撃の様子(連絡船なのに、空から攻撃して全部沈めたそうです。海に浮いた乗組員を戦闘機から機関銃で撃ったとかひどかった)などを読み、ちょっと沈んだ気分で船をあとにしました。外は相変わらず寒くて風が強く、傘が役に立ちません。
青函連絡船が全滅したのは、戦争、半減したのは台風。
どちらも困ります。
ずるずると都合のいい方向へと引っ張りたいのが政府なのでしょうね。